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おおた社会福祉士会会員リレーエッセイ

会員によるリレーエッセイrelay essay

大塚道子 会報84号より

大塚道子写真

平成26年12月からさわやかサポート蒲田で見守りコーディネーターとして働いています。以前は八王子市の地域包括支援センターで働いていました。職場は京急梅屋敷駅から徒歩4分の特別養護老人ホーム蒲田の1階にあります。蒲田にきて最初にびっくりしたことは、「坂がないこと」「自転車の数がものすごく多いこと」「商店街がたくさんあること」「地面が凍結しない事」「冬でも高齢者の方が活発に活動していること(八王子より寒くないから?)」「銭湯が多いこと」「熱中症対策に熱心なこと」「飲み会が多いこと(とてもうれしい!)」などです。
見守りコーディネーターとして、高齢者の方や介護事業所はもちろんのこと、商店街・NPO・町会自治会・警察・消防・老人会・区役所等と連携しながら、高齢者の方が安心安全に地域で暮らしていくにはどうしたらいいか日々考えています。最近は、こどもさんや民間企業の社員と関わる機会も増えてきています。地域には若いパワーが必要であるし、子供の頃から高齢者の方の特性を理解もしていただければと思っています。
認知症サポーター養成講座もおこなっています。蒲田の方そして日本中の方に、認知症を「タニンゴト」ではなく「ジブンゴト」として考えていただければ、認知症の方にやさしい地域ひいては地域住民全員にやさしいまちになるのではないかと考えています。
都会で自転車に乗ることにまだ不慣れなのでヨロヨロとこいでいますが、道で私を見かけたら是非声をかけてください!!
写真はさわやかサポート蒲田の、食べることが大好で素敵なメンバーです。


松村零那 会報82号より

松村零那写真

生まれ育った関西で社会福祉士を取得し上京したのは、もう7年も前のことです。
認知症対応型デイサービスでの介護、相談員職を経て、現在の職場であるダンススタジオ“ERINA.STUDIO FIT”と巡り合い、一見福祉とは関係のないように見える世界に足を踏み入れました。
ダンススタジオではキッズダンス講師としても活動し、3〜9歳の子ども達と地域のイベントに出演するなど、これまでにない経験をすることができました。その講師経験の中で気付いたことが一つあります。それは、子ども達それぞれの個性に寄り添いながら共に成長していくという過程は、福祉に通ずるところがあるということです。その想いは私が福祉をもっと学びたいと思った原点になっています。
社会福祉士会への入会は、そんな「もっと学びたい」という想いからでしたが、それを後押ししてくれたのが、2015年から始まったシニア向けダンス体操講座の存在でした。大田区内老人いこいの家8カ所での講座をスタジオが担当することとなり、地域の方の健康づくりのお手伝いができる機会を頂いたのです。今まで携わってきたダンスと介護予防の取り組みが融合し、一つの形になったことを嬉しく感じた一方、身近に利用できるこのような資源を知らない方が大勢いるということを残念に思いました。そんな想いを頂きながら自分にできることを考えていくうちに学びの場である社会福祉士会の存在を知り、幅広い分野でご活躍されている社会福祉士の方々と出逢うことができました。
私はまだ入会して間もないのですが、先日行われたソーシャルワーカーデーのイベント運営側としてお手伝いをする機会にも恵まれました。このイベントを通じて感じたことは、福祉は特別な形が決まっているものではないということ。そして、私が巡り巡って今いる場所に辿り着いたように、福祉は私達の身近な場所にあるものだということです。まだまだ認知度が高くないと言われている社会福祉士ですが、私は人と人を繋ぐ魅力的な存在であると感じています。そんな社会福祉士という存在をより多くの方に知って頂き、当たり前のように社会福祉士が側にいるという地域社会の実現を目指すこと。それは、私の今の目標の一つです。自身の活動もまだ始まったばかりですが、社会福祉士会で学びを深め、一歩ずつ歩みを進めていきたいと思います。


加藤奈央 会報81号より

加藤奈央写真

2014年に社会福祉士の資格登録と同時におおた社会福祉士会の勉強会に参加させていただくようになってから、あっという間に1年が過ぎました。今年はソーシャルワーカーデイのイベントのため先輩社会福祉士会会員の皆様と共に運営などの準備にも少しだけ参加させていただいています。社会福祉士会の活動を通じて、様々な職場で活躍されている諸先輩方が、どのような視点で社会を見つめ日々のお仕事に取り組まれているのか身近に見聞きでき、社会福祉士の職域の広さと深さを感じています。
私は現在、大田区内にある介護事業を運営する会社で在宅高齢者のケアマネジャーとして就労して6年になります。社会福祉士資格取得は、ケアマネジャーの初任者研修を受講した際に、相談援助技術について介護職としてのそれまでの経験や現場の勘ではなく体系づけた勉強をしたいと思い、通信教育の大学に入学したことがきっかけでした。働きながら学ぶことは時間的な制約がありましたが、ケアマネジャーとして相談業務を行いながら同時に学部の勉強を進めることは実践的でよかったと思っています。
ケアマネジャーにご相談されるのは介護保険制度の利用者やそのご家族が中心ですがその生活上の課題は様々で、医療や介護の問題の他にも、介護を続けるご家族の離職など就労問題、生活費や家屋の老朽化に伴う修繕や引っ越し費用などの経済的な問題、世代や性別による家族観・価値観の相違やモラルハラスメント、などなど介護保険制度の活用だけではとても解決が難しい状況です。このような様々なご相談に応じるにあたり相談援助の技術や福祉に関する幅広い知識の研鑽が大切だと痛感しています。
また、昨年の6月には9日間の日程でフィリピンのマニラにあるマザーテレサの「死を待つ人の家」、ミンダナオ島で日本人が運営する孤児院、ダバオの日本人が入所している介護施設を個人的に訪問しインタビューやボランティア体験をして、その報告会を11月に職場にミンダナオ島の孤児院運営スタッフ澤村氏をお招きして開催することができました。介護や福祉の分野でのフィリピンと日本の社会的・文化的背景を比較しとても興味深い体験ができたことに感謝し、私自身がフィリピンで出会った人々に何か役立てることを見つけることが宿題として残りました。
最近はよく、高校時代の英語の授業で習った「Think Globally, Act Locally(地球規模で考え、足元から行動せよ)」という標語を思い出します。社会福祉士として技術と知識を深め、広く社会全体のグローバルな問題にアンテナを張り、足元の問題解決に向けて目の前の手助けを必要としている人々のことをしっかり考え支えることのできるソーシャルワーカーになりたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願い致します。


小泉嘉伸 会報79号より

小泉嘉伸写真

私は、高齢者の居住系サービスがある未来倶楽部に勤務する社会福祉士です。特に医療依存度の高い患者、退院後も医療処置が必要な方を病棟から生活の場へと繋げるスペシャリストたれ!と社会福祉士の立場で「医療機関連携室」を立ち上げました。メンバーは、社会福祉士2名、主任ケアマネ1名、保健師1名。個人的には「さわやかサポートみらい」と呼んでおります。
設立の際、会社のオーナーに理解を求め部門を立ち上げた理由は2つあります。介護サービスは依然として居宅か箱物かという前提にあり、公は居宅を目指す訳ですが、目の前ではマネジメントするクライアントが病棟で長期入院になればマネジメントする者の意識から離れ、結果その人のマネジメントが途切れ家族も初物として混乱し、声なき声が拾えぬまま本人の利益を損なう機会を多くみて、これは改善しなければと考えました。
次に、民間で働く社会福祉士の職域を拡大したいという思い。クライアントの終末期における利益を守ること、そのため社会福祉士がソーシャルに係わることで法人内の利用率といった数字、終末期に対しソーシャルな対応力で改善することを目に見える形でオーナーに受容・需要とされること。社会福祉士を採用すれば、クレームなどボタンの掛け違いが発生した場合に対応のスムースにできること。つまり入院の減(サービス利用の増)、病棟職との適切なやりとりを見て親会社の利益になるわねと。
こういった私の熱い考えを醸成してくれたのが“大田区”です。そして、私にソーシャルな感覚を想起させた場所は20年前のディープ蒲田でした。私はネイティブでありませんが、その人本来の持つ力を実践するという職能にて、つね日頃、仕事に津軽弁を取り入れております。地元高校の先輩(けっこう前)が偉大な太宰治、寺山修二、澤田教一であったので、「わ(私)も、失恋(自殺はなし)・演劇(深酒なし)・放浪(危険なし)すべ」と今もあまちゃんである私は、中央沿線ただし新宿の先へと「上京計画」を企んでました。当時、刑事で目がギンギラギンであった父が、土地勘のある場所だとの鶴のひと声で降り立った国鉄蒲田駅(もうすでにJR蒲田であったがまだそんな雰囲気)。まあ、映画の「蒲田行進曲」の銀ちゃんの町だからいいやとあまちゃんの能年さんばりに“かっけー”と上京の一歩。今もある某もも太郎のメガネ屋さんの加工場にて、職員さんの関係良好、お弁当つきのいいバイトを紹介してもらいサービス業の薫陶を受けながら青春を謳歌しました。
ただ、借りたアパートが中にある薄い引き戸が玄関で隣室の明かりが壁から漏れる始末。そこに朝はとても気が弱そうなんですが、アルコールのとても好きなおじさんが居て、共依存している奥さんが夜の仕事へ行くと豹変しこちらの生活音にうるさいといつも怒鳴りこんで来ました。津軽の大らかな生活が一変し息をひそめる環境になり、メンタルもささくれ立ったものになりました。ある日はカレーを作っても臭い、うるさい、私がドア開けたら包丁向けている。本当にやれやれというやっぱりディープな蒲田でした。本人にとって帰宅したい家、安心でき心地よい環境が全人的に必要だとこの時に得たことが、今の専門職の領域へと繋がってます(少し強引かな)。そして援助職は個別にクライアントへアプローチするだけなく、身体・メンタルといった様々な疾患を複合してかかえているのだと、世帯を背景として汲みとることが地域保健にとっても大事であると脳裏に刻んだのです。当時は怖くてすぐUターンしなきゃと思い、蒲田に実家がある穏やかな性格の女性と知り合い、伴侶(今の処)としてゲットし青森市の人口も増やさなきゃと先走りましたが、今もってはスタンバイ中です。その間に尊敬する津軽の父は、今年の異常な「雪かき」を「冬季の介護予防」と冗談を言えるようになりました。故郷を遠くに想いながら帰れずに私の近くで亡くなってしまう方が本当に多い。だから、今日も私はクライアントがどこを住まいとしても、最後をどう孤立せずにどの様な関係性で迎えるかを心に留めたい。クライアントの未来(最後の糊しろ)をデザイン(設計)する係わりを大事にしたい。
“これでいがべ わぁば 好ぎさなって” “わんつかも しばれでねじゃ” ジャン〜【津軽弁ver.「アナと雪の女王」Let It Go?ありのままで?byタマ伸也with浅野祥(津軽三味線)】 〜http://youtu.be/-V3alVVt7vg
「自分が信じる道が歩きやすいとは限らない」と肝に銘じ、他のおおた社会福祉士会のメンバーからよい情熱を頂きながら、自分も次のメンバーに繋ぎます。へんばね。


柴田愛三 会報77号より

柴田愛三写真

私は20代の頃は百貨店で販売の仕事をし、30歳で特別養護老人ホームに入職しました。介護職員として5年、生活相談員として5年、昨年からは法人内の異動で地域包括支援センターに勤務しております。その他の活動としては、昨年1年間、仕事の合間を縫ってスピリチュアルケア(心のケア)の勉強をし、都内の病院ホスピス病棟に実習に行きました。今年は、成年後見人の受任も1件始めたところです。
社会福祉士の資格については、介護職員をしていた頃に通信で学び取得しました。介護の仕事は、3Kと言われていますが、私自身は利用者と共に喜びや悲しみを共有できて、その方の人生の最期まで寄り添い続けることができるという、喜びややりがいがあり、悩み苦しみながらも仕事を辞めたいと思ったことは一度もありませんでした。
A.H.マズローの人間欲求を段階化した有名な理論(ピラミッドの一番下の「食べる、寝る」などの基本的欲求が満たされて、はじめて高次の欲求が出てきて、最後に一番上の自己実現欲求という段階に至る、というもの)について三好春樹さんが「関係障害論(1997)」で次のように反論を述べていました。
「今日どう食べるか、どう出すかということの中に、小さな自己実現があるはずです。いま、ここに自己実現があるのです。だから、これをやった後に何か意味が出てくるはずだ、というのではなくて、どう食べてもらうか、どう排泄してもらうのかということに、どう関われるかということが大切なのです。」ここに私の介護職・対人援助職としての原点があります。これは高齢者の介護の現場にのみならず、ホスピスなど残された時間の少ない患者さんと対峙する時には更に強く意識せざるを得ませんでした。「いま、ここで、目の前の人、目の前の課題とどう関わっていくか」にこだわっていきたいと思っています。
さて、昨今2025年には多くの高齢者が「看取り難民」になると言われています。今以上に、独り暮らしや夫婦2人世帯が増加している状況の中、病院の病床もいっぱいで高齢者は望む望まないにかかわらず、退院を余儀なくされるためです。高齢になっても誰もが安心して、最期まで住みなれた地域で暮らせるようにするためには、どうしたら良いのでしょうか?
第一には、地域包括ケアシステムの構築(自助・互助の活性化)が早急に必要であると言われています。第二に、すっかり医療に依存的になってしまった私達の思考を根本的に変える必要があると感じています。
現代日本人の傾向として、病院に行っても治らない病気もあるし、加齢は防ぎようがないし、死は誰にでも平等にやってくる、ということを意識していない人が多い。「先生にお任せします」と、平気で自分や家族の治療について、無批判・依存的な態度で医師に丸投げしてしまっているように思えます。
特に日本人が「死」について考える場合、昨今は終活ブームで、自分が死んだ後の財産分与やお葬式のことなどを遺言として残す人は増えてきました。しかし、自分がどう死を迎え、何を望むか?延命(そもそも何を延命として捉えているか?も、人それぞれで曖昧)についてなど、「リビングウィル(生前の意思表明書)」など残している人は少ないようです。「リビングウィル」もなく、家族と「死」について語り合う機会を持たずに、その時を迎えた人は、自分の意思に反する治療や最期の時を迎えることになるかもしれません。家族や周囲の意向に沿っての選択にならざるを得ません。
「生きるとは、つまり生きることの問いに正しく答える義務である」V.フランクルは人間が実現できる価値を3つに分類し、そのうち人間が最後まで実現しうる価値として「態度価値」を重視しています。
「どう生きてどう死んでいくか」…医療に対して受動的・依存的な患者意識から、自立・自律した当事者としての意識を持っていただけるよう、情報発信、情報提供し続けることによって、ご本人やご家族が自らの力で選択し、行動が起こせるようにすることが、私達の責務であると強く感じています。


安藤一子 会報76号より

安藤一代写真

私は株式会社ケアサ−ビスを定年退職しその後、以前の職業の薬剤師に戻るかどうしようかと迷った末に、もう少し介護の仕事を続けようと決心しました。もともと @ケアマネジャーは公正中立であるべきと考えていたこと A職場での人間関係はもうこりごり B同居している92歳の義理母の面倒をみるには自宅でしかないという一人勝手な理由で独立したのが平成17年8月でした。
早いもので1人ケアマネとして働き始めて9年になります。その間にどれ程、周りの方に助けられたかわかりません。ただただ感謝の気持ちで一杯です。
さてケアマネジャーの仕事は何処までやってもきりがありません。早朝から電話で起こされ「ベッドから落ちたのですぐ来て下さい」とまったなしの要求です。またある時は日曜日も事務所を開放し、家族との問題解決にむけた相談の場所にもなります。国から報酬単価は低いですし、事業としてはうまみの薄い業種です。ではなぜ自分は止めないんだろうか。「君はなんだかんだ言いながらもこの仕事が好きなんでしょう」と言う主人の言葉に尽きるのかもしれません。
来年度の改正で私達ケアマネジャーの仕事内容も大きな変化があると予想されます。しかしどんな制度になろうとも専門家として自立していることが大切ではないでしょうか。それにはアンテナを高くして、常に情報収集をおこたらず、また時間を作っては勉強会に出席し自らレベルアップを図っていかなければ、閉ざされた中でのケアマネジメントに陥ってしまう危険性があります。1人だから「これでいい」と思ってしまえば終わりです。常に気を引き締めていかなければなりません。
昨年より、社会福祉士として地域に少しでも貢献できたらとの思いで「おおた社会福祉士会」に入れていただきました。気づきの連続で目からうろこの感がありますが、地域との触れ合いを第一にと今日もご利用者様の笑顔に会いたくて、赤ヘルのおばさんはさっそうとバイクを飛ばして大田の町を走り回っていることでしょう。


塩原匡浩 会報75号より

塩原匡浩写真

初夏の日差しが眩しい季節となりました。桜の頃の次に好きな季節です。今回リレーエッセイを担当させて頂きます塩原と申します。おおた社会福祉士会では新任理事の大役を頂きました。権利擁護チームに所属しております。今回はこの「権利擁護」と私の出会いとその後の関わりなどを中心に、自己紹介させて頂きたいと思います。
私と権利擁護の出会いは、行政書士をしている約5年前のことでした。葛飾区行政書士会の先輩が飲み会の席で、「これから世の中の役に立とうと思ったら成年後見人だ。でも残念ながら行政書士では家庭裁判所に名簿登録が出来ない。弁護士か司法書士か、社会福祉士資格を取得すべし。私は幸い社会福祉士資格を取得する事ができた。社会的に弱い立場の方々の為に力を尽くしてゆこうと思う。塩原君もぜひ取りなさい。きっと限りなく広いフィールドが君を待っているよ。」と言われ、その言葉と熱い思いに衝撃を受けながらも本当にそうなのかという疑問もあって、その先輩とかなり熱い議論を交わした事を覚えています。それが福祉の分野に飛び込み、社会福祉士を目指そうとしたきっかけです。人生にはいくつかのターニングポイントがあると言われますが、私にとってあの出会いがそのひとつであったのかも知れません。その後私は品川区に事務所の拠点を移し、成年後見・相続・遺言手続き等を気軽に相談できる「あんしんステージ法務・福祉事務所」を運営する傍ら、品川社会福祉協議会が運営する福祉学校の通信教育をフウフウいいながら受講し、レポート提出に追われ、実地研修を社会福祉士やケアマネージャーの方々の後について受け、現場にて自らの五感で感じ取る方法を学び、なんとか国家試験も一回で合格する事が出来ました。ほとんど奇跡でしたが、関係者の多大なる協力があったればこそ出来た事であると感謝しております。
それまでの私はサラリーマン経験が長く、ずっと企画畑でした。福祉現場での経験こそありませんが、一貫して福祉・介護・医療に関連する仕事をしてきました。東急建設株式会社本社開発部の医療・福祉プロジェクトチームで、老健・特養・療養型病床群が世の中に存在しない頃に、旧厚生省からレクチャーを受け、社内コンサルタントとして全国の支店を駆け回り老健・特養の伝道師を行ったり、セコム株式会社医療事業部とセコム医療システム株式会社で最先端医療センター「四谷メディカルキューブ」の用地取得からスキーム構築・設計・建設等の立ち上げ時のプロジェクトマネージャーを行ったり、ワタミ株式会社店舗開発本部介護開発部で有料老人ホーム立ち上げ等を行ったり、某介護施設グループの経営総責任者として、国内10ケ所の施設と約150人の社員を預かり、経営を実践したりしてきました。それらの経験が今のソーシャルワーカーとして「権利擁護」等に関わる仕事に深みと洞察力を与え、私のバックボーンになってくれていると感じています。
現在は社会福祉士・行政書士として、成年後見・相続業務・遺言業務を中心に地域に密着した活動と、『9マスユイゴン』という脳内整理と人生の棚卸しを通じて、簡単に法的効力のある遺言が書ける新しいユイゴンの形の紹介やセミナー等普及活動を全国で行っております。世の中には人知れず悩んでいる人がたくさんいる。そして多くの人は誰に相談したらよいのかわからない。いや、誰にも相談できない。この仕事を始めてその事実を知りました。「もし私がそのような方々の力になれたら。」悩み困っている人に寄り添い支えることこそが自分の使命であると考えるようになりました。悩み困っていた人が解放された時の笑顔が私の喜びなのです。その思いを胸に日々仕事をしています。悩み困っている方々が真っ先に相談するのが「おおた社会福祉士会」と成り得るよう、これから力を注いでゆきたいと考えています。どうぞ、よろしくお願いいたします。次のリレーエッセイは新任理事の安藤さんにバトンをお渡しいたします。


笹生崇 会報70号より

笹生崇写真

私が30歳で福祉業界への転職を志し、平成16年に社会福祉士の資格を取得して初めて就職したのは世田谷区下馬のデイサービスでした。
就職当初は「2、3年位やってみよう・・・」程度の感覚でした。そこで介護技術と福祉職としての基礎を身に付けて、各福祉分野を渡り歩いてみよう、、、みたいなことを考えていたのではなかったか、と今になってみれば思うのですが、結局そのデイサービスに在籍したのは約5年にわたりました。生活相談員として3年、管理者として2年間、この5年間に様々な出来事があり、多くの困難にも直面しました。慢性的な人員不足、感染症の蔓延、支援困難事例への対応、そしてスタッフ間のトラブル、、、半年以上にわたる週6日勤務、再終電車ギリギリまでの残業と、私自身ストレスで心身の変調を来たし、時には路上で吐血して自ら救急車を呼ぶこともありました。そんななか、私の支えになっていたのは、苦楽を共にしたスタッフの存在と、変わらず利用者として来所される地域の高齢者と、そして何よりもその地域への強い「思い入れ」でした。
5年間勤務した世田谷区下馬という地域は私の住む大田区南六郷から公共の交通機関を利用して約1時間弱の距離にあり、決して遠方ではないものの就職して初めて足を踏み入れた地域でした。当然初めの頃は戸惑いがありました。デイサービスで相談員としてある程度責任ある立場にいる以上、送迎のルートを覚える必要もあり、また各関係機関(公的機関、居宅支援事業所等々)の所在も覚えなくてはならずで、業務終了後に自転車を走らせることもありました。しかしそうした努力の成果からか、5年間のなかでそれぞれの場所が、それぞれの人達の記憶にリンクしていくようになり、この下馬が自分の「思い入れの地域」に変わっていきました。
人にはそれぞれ「帰りたい場所」があると思います。(生まれ育った土地、母校など、、、でしょうか)私が世田谷区下馬を離れてから4年が過ぎましたが今でも半年に1回程度、何の用があるわけでもなく、かの地を訪れては自転車(三軒茶屋駅のレンタルサイクルを利用して)走らせています。当初はたいへんな思いをして覚えた送迎ルートを不思議と体が覚えていることに、自分のことながら驚きます。時にはデイサービスを訪ねたりすることもありますが、そのなかでは懐かしい人たちとの再会を喜び合うことも出来ます。(思わぬ訃報を聞くこともありますが。)
それぞれの風景がそれぞれの人たちへ、それぞれの出来事へつながっていく、、、そんな感覚をいつも覚えるのです。今は離れてしまった地域ではありますが、変わらずそのままであって欲しいと、そして時々帰れる場所であって欲しいと、身勝手に思っています。
以前、武田鉄矢氏がTVの討論番組で若者たちにこう訴えていたのが強く印象に残っています。「今の自分を励ましてやれるのは過去の(頑張っていた)自分だけだぜ!」と。世田谷区下馬、、、これからも長く私自身を励ましてくれる「思い入れの地域」です。


吉田悠吾 会報67号より

吉田悠吾写真

平成20年10月1日、有料老人ホームやサービス付き高齢者向け住宅を紹介するアイシーズ株式会社を品川区にて設立致しました。以前まで勤務していた有料老人ホーム運営会社での上司を代表として、同僚とともに3人での会社設立を機に、当時、大阪支店に勤務していた私は退職後、上京することとなりました。高齢者住宅紹介事業を始めるにあたりまず必要なことは、施設入居を希望する方々から継続的に相談をいただける仕組みを作ることです。
早速、我々は意気揚々と地図を携え慣れない土地を自転車にまたがり、居宅介護支援事業所のケアマネージャー様や病院の相談員様のもとへ訪問し、アイシーズの営業活動を開始致しました。ところが業界にはすでに数社の古参の大手老人ホーム紹介会社があり、そう簡単には知名度も実績もない新参者の会社に大切なご利用者様の施設選びを任せてくれるはずがありません。 いくら待てどもお客様からの電話が鳴らず途方に暮れる毎日…。ダイレクトメールを発送しても反応が無く、ただただ垂れ流していく広告費…。
     当然のごとく、創業2年目に入って早々に資金はショートし、代表は資金繰りに奔走することになります。同僚は故郷の大阪に帰り転職活動の準備を余儀なくされ、いよいよ倒産寸前のところまできました。 “do my best for the guest お客様のために最善を尽くす”という理想を掲げ行動していたものの“そろばん”がはじけなかった結果だと痛感しました。 しかし、弊社を利用いただいたお客様や相談員様からの感謝の言葉を励みに、決して辞めるということは考えていませんでした。 そして、最後の悪あがきが功を奏したのか、新たな出資を得ることができ、なんとか会社は存続することができたのです。 一度窮地を乗り切った会社は強く、それまで地道にまき続けていた種は芽を出しやがて花となり、相談件数は飛躍的に伸びました。5年目を迎える現在では全国1500以上もの提携施設を取り扱うまでになり、全国から毎日ご相談のお電話を頂戴するようになりました。 何よりも、数々の局面においてひとつひとつの出会いを大切にしてきたからこその結果であると思います。 しかしながら、決して現状に満足していません。今後も新たな分野へ果敢に挑み、更なる成長を目指していかねばなりません。
個人的には社会福祉士として10年になる節目の年です。これからも会社の成長と同時に個人としても成長できるように、継続しておおた社会福祉士会に参加させていただきます。会では様々な方からの素晴らしい学びや気付きがあります。人との出会いはお金には変えられない価値があります。このエッセーをご覧いただき会に興味を持たれ、「よしっ!参加してみよう!!」と思われる方が一人でも多く現れ、会と皆様の更なる発展に繋がれば幸いでございます。


田端千英 会報第59号より

田端千英写真

きっかけは17 年前の阪神淡路大震災でした。
親戚や友人・知人の被災状況や訃報を耳にしながらも、当時、生命保険会社でモーレツ社員真最中だった私は東京での仕事に追われ、やっと休暇をとって故郷の地を踏んだ時はただ呆然と立ち尽くすだけでした。
跡形もなく消えた街と想い出、涙も枯れ果てた人々の喪失感、一瞬にして闇の世界に一転した自然の破壊力に身が震えました。
しかし何よりも辛かったのは自分の無力感でした。
自分のやりたいことを真剣に探してみようと思ったのです。辞表を出してから2 年かかりましたが、あの被災地で見た人の脆さと強さを、そしてコミュニティを学ぼうとこの世界に入りました。
現在は訪問介護・通所介護・居宅介護支援・小規模多機能型等の介護サービス事業所と高齢者専用賃貸住宅を経営しています。株式会社という営利事業ではできないことをと、独立型社会福祉士の事務所も登録していますが、まだまだ課題が山積みです。幼稚園も経営している寺で、老若男女を問わず様々な方が出入りしている環境で育ったせいか、「お年寄りから子どもまでみんないつも一緒!」が私の好きな居場所です。


吉田晴俊 会報第44号より

吉田晴俊写真

気がつけば専門学校を卒業して以来、老人福祉の世界に入って12年以上が経ち、今はケアマネージャーとして在宅介護を支援しています。卒業時は知的障害者福祉に就きたかったのですが、バブル崩壊による就職氷河期の時代というものがあってか、就職先がなかったのを覚えています。
ところが昨今では、福祉関係職の人材不足が社会問題になっています。大変な仕事のわりに賃金が安いなどの理由で「生活の豊かさ」が見出せないというのが現状なのでしょう。現在、居宅介護支援と訪問介護サービスを提供している会社に勤めていますが、介護報酬の低さの問題などもあり、会社全体として営業利益を出すことが非常に難しいのが現実にも思えます。そんな中、労働者の賃金ベースを上げることができないのは当然です。
しかし福祉の仕事というのは、賃金報酬だけでは計り知れない「お給料」があると思っています。福祉全体に言えることは、障害や高齢などにより問題を抱えた方々が、生きがいを持って生活ができるように共に考え、その方の生活が充実して楽しみや歓びを見出すことのサポートができる仕事だと感じています。そんなときに利用者や家族から「ありがとう」って言われるその一言が「お給料」なのではないでしょうか。
福祉職は体力も使います。神経も使います。勉強もしなくてはなりません。福祉の世界も契約制度が導入され、利用者の権利意識も高くなったことで、正直嫌な思いをしている人も多いことでしょう。それでもそこに仕事のやりがいや達成感を持っている人は大勢いると思います。そんな人たちと一緒に仕事できていることも「お給料」でしょう。
心優しい福祉職の方々、温かい目で見てくれる利用者や家族が、自分の「心の豊かさ」を増やしてくれます。その財産を大切にしていきたいと思う今日この頃です。


生駒友一 会報第41号より

生駒友一写真

とある水曜日。紅東5kg、鳴門金時2kg、無塩バター450g。リュックサックを背負いトートバッグを肩にかけ、大田区北馬込から横浜市旭区まで、バスに電車に揺られて向かう先、「虹のかけはし」(就労継続支援B型)。
昨年末にお話をいただき、今年初めから月2回ほどのペースでサツマイモ菓子の指導に行っています。スウィートポテト、大学いも、芋ようかんなどを実演しながら職員の方に教えてきました。4月からは近隣の若葉台団地で月2回開催される朝市と夕市に出店し、利用者の方が店員となり直接お客さんに商品を販売するようになりました。
これまで作業所内での活動が多かったため、接客などを通して地域の方と触れ合う活動を職員の方は模索されていたようです。第一歩としては順調なようで毎回4〜5 名の利用者が参加し、商品は30 分ほどで完売だそうです。とはいえ、課題もまだまだ。商品は職員の方がパック詰めまですべて行っており、利用者の方は販売のみです。慣れない販売の仕事なので短時間で切り上げるべく、多くの量を用意できてはいません。今後は利用者の方にも、目方を計って大学いもをパック詰めする、スウィートポテトを舟形に整形するなどの作業にも係わっていただく。そんな作業を通して、よりサツマイモ菓子の仕事にも親近感を持ってもらえたら嬉しいです。
徐々にお客さんとのやりとりにも慣れ、お菓子作りの商いにも面白味を感じてくれるようになれば、大幅な工賃アップにサツマイモが貢献することも夢ではないと思っています。いずれにせよ、ある程度事業として軌道に乗るまでは継続して出来る限り応援していくつもりです。
もしお近くにお住まいの方がいらっしゃいましたら、ぜひ足を運んでみてください。朝市が第1日曜日8 時から、夕市が第3 土曜日15 時からです。
申し遅れましたが、わたくし家業がサツマイモ菓子を製造・販売する芋屋です。何となく社会福祉士の資格を取得してしまったため、罪滅ぼしというわけでもないのですが、何となく「虹のかけはし」の活動を応援しています。本業がある身、専門性を活かしつつ何となく福祉の周辺にいる活動。目下のところお気に入りです。
*「虹のかけはし」を運営する社会福祉法人湧翠会(ゆうすいかい) のホームページ
http://yuusuikai.or.jp/top.html


おおた社会福祉士会事務局

〒143-0021
東京都大田区北馬込2-27-11

TEL 03-3774-2955